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[Calendar/When/Exe/暦説明/本編/中国/日付の異同と表記] (前:彝族の暦|次:朔閏表一覧) (English)

日付の異同と表記

いろいろな文献の価値を評価するには研究史(*)に関する理解が必要になり ますが、私にはそれだけの知識がありません。以下の解説をお読みの上、 精度及び適用限界を確認してご使用ください。

(*) when.doc 文献[92]を読むと、when.doc 文献[91]はもっと 評価されて良い気がします。when.doc 文献[89]の著者のひとりである 川原秀城氏にいただいた文献[91]の序文のコピーから、汪氏の母上で あられる趙儀姞さんのことば(咸豊5年(1855)9月29日付)を引用しておきます。

  (前略) 兒子曰楨性好學史又喜習算嘗有志於此徧攷當時行用之本術如法
  推歩得其朔閏凡仲更(**)所推悉為算校正其譌補其缺并續推宋以後之長術
  又取二十四史所載月日一一稽其合否證以羣書略加攷辯其布算検閲始於丙
  申之夏期以二十載之功畢成全史 (中略) 他日書成弁以序文可乎余笑而頷
  之迄今忽忽已閲二十年 (中略) 而擧業間之人事又擾之有萬萬不能速成之
  勢余衰年久病恐不及待其成故預為此序 (後略)

  (**)劉羲叟 資治通鑑のための暦日計算をした人物

参考文献

V1.XからV2.Xへのバージョンアップのきっかけになった文献です。

一応紀元前1384年から2000年までの暦日が記載されていますが、各時代の精度 については明記されていません(この文献に限らず、中国で出版されている 暦日対照表では計算方法とか根拠が示されることがほとんど無いようです)。 ただ、1987年の刊行でそれ以前の研究は参照され、異同がコメントされていま すので、原則として本文献に準拠して朔閏表データを作成しました。

漢代以降についてみると、五胡十六国、南北朝時代の後梁及び五代十国時代 の十国の暦日が欠けています。従って残念ながら仮に、後秦と北涼を除く 十六国は東晋と同じく景初暦、十国は五代と同じく崇元暦・調元暦及び欽天 暦であるとしています。

十六国のうち後秦は三紀暦、北涼は玄始暦ですが、これらについては別途計算 によって暦日を求めました。

また新五代史によれば十国のうち、南唐は斉政暦、前蜀は永昌暦及び正象暦 ですが暦法の詳細は残されていないとのことです。

その他、南北朝時代の後梁の暦法は大明暦であるものと仮定、台湾の鄭氏政権 の朔閏は時憲暦によっています(後者は本来は授時暦であるはずですが残念 ながら資料を読む語学力がありません)。

最後に、四分暦の時代について本プログラムでの計算と比較した(when??.rsc のコメント参照)本文献の問題点を列挙しておきます。

  前漢顓頊(せんぎょく)暦
    176BC1月朔の日付が異なる。一貫して冬至を11月に固定する置閏法
    である。

  殷暦推算表(別表漢代の部)
    本来の殷暦に較べて冬至の日付を1日早くしないと置閏が合わない。
    それでも、なお 162BC・105BC の置閏が合わない。

  秦暦日表
    本来の殷暦がそのまま用いられている。

  戦国暦日表
    whenhv.rsc に示したパラメータで、置閏は487BC閏3月まで、朔の日付は
    503BC1月まで遡って適用可能(閏月は1月早くなる)。6種の四分暦とは
    何れも一致しない。グレゴリオ暦503BC2月18日庚午(顓頊暦で用いられた
    干支である己巳の翌日)正子を朔でかつ立春とする。

四分暦に関して、いくつかの論文が掲載されています。本プログラムの四分暦は 本文献をもとに作成しました。この文献にも秦・漢代の暦日表がありますが、 閏月の挿入位置は文献A[37]と一部異なっています。太初改暦以前の中国暦日 としてこちら(陳久金・陳美東論文)を採用しました。

本文献には漢代の敦煌の暦法も取り上げられていますが、プログラムには反映 されていません。世の中では漢代の史料と計算の突き合わせが行われており、 特に後漢四分暦の時代はかなりずれているようです。日本における『日本暦日原典』 のようなまとまったものはまだないのでしょうか。

暦法の行用年代について参考にしました。

五胡十六国及び五代十国時代の十国の興亡及び皇帝の在位の情報を本資料から 得ることができます。興亡については「月」の分解能で判りますが、皇帝の在位 及び年号については内乱等が本文に記載されている場合を除いて「年」の分解能 しかありません。

巻末付録の中国学芸年表に五胡十六国及び五代十国時代の十国を含めたほぼ全て の年号が記載されています(後蜀のみを除く)。残念ながら「年」の分解能しか ありません。十国等のうち本プログラムで表示されないものは、他の国の年号を 使用していました。南唐の保大年号を使ったもの(楚950-951年)、五代の年号を 使ったもの(その他)等です。

史記[103]
漢書[104]
三國志[105]
後漢書[106]
晋書[107]
新五代史[108]
資治通鑑[109]
続資治通鑑[110]
歴代紀元編[112]
中國天文暦法史料[66]
中国の歴史(六)[111]

年号に関しては、より詳しい情報としてこれらの文献を参照しました。これらにより、 改元の日付及び小軍閥に関して、非常に詳細な情報を入手することができました。

それでもなお日本暦日と違って改元の日付が「日」の分解能では判らない ものが多々あります。この様な場合、警告メッセージを出して、その月の1 日に改元されたものとして表示するようにしました(禅譲で王朝が交替した 場合も同様)。並立する他王朝に滅ぼされた場合は、滅亡した月の末日まで その王朝の年号を表示するようにしました。

並立する他王朝に滅ぼされた王朝の滅亡の日付は年号に「滅亡」と指定する ことによって確認できます。

文献の間の矛盾

プログラム作成中に気づいた文献間の矛盾について列挙します。

文献A[37]と文献B[50]では秦・漢初の暦日が異なる。

文献B[50]の方は複数の論文からなりますが、以下の記述はそれらを私なり に整理したものです。張論文は陳論文に較べて月の位相が17/940日遅れています (massangeanaさんの御指摘による)が、 本プログラムは 陳論文の方に従っています)。

文献B[50]の文献A[37]に対する相違を以下に列挙します。

  【中国統一以前の秦】
    始皇帝9年に改暦があり、顓頊暦を採用し年初(歳首)を1月とした。
    閏月は12月の後に挿入した。

  【中国統一以後の秦】
    顓頊暦を使用し年初(歳首)を10月とした。閏月は9月の後に挿入した。

  【162BC以前の漢】
    176BC1月朔の日付は本プログラムの計算値と一致する。

  【162BC以後太初元年4月までの漢】
    秦の暦法を、固定する中気を変更して使用した。雨水を1月に固定する置
    閏法である。

周の神功、聖暦年号の元年が文献A[37]と文献D[6]で1年食い違う。 文献A[37]が正しい様に思われる。

西遼の皇帝・皇后の在位が文献D[6]と文献F.歴代紀元編[112]で全く異なる。 (文献F.歴代紀元編[112]には*「遼史に従う」*と他にはないコメントがあり資料 の混乱が推定される)

三藩の乱関係の日付が文献D[6]、文献F.歴代紀元編[112]、 文献F.中国の歴史(六)[111]で食い違う。

文献A[37]及び文献Fで互いに矛盾しているものが多い(気づいたものを下記 に示す)。プログラム作成上文献A[37]を最優先とし、文献F中では 資治通鑑[109]を優先する(以下はすべて改元または滅亡の日付)。

ただし三國呉の赤烏改元は、三國志では8月、資治通鑑では9月となっていますが、 この時代の魏は 建丑月を年初としており、赤烏元年8月=景初2年9月ですので、 本プログラム の原則(建寅月年初)により8月改元としました(暦研究家の 西沢利男氏のご指摘による)。

 105年   元興   (全資料)      4月庚午はない
 189年   中平   (全資料)     12月戊戌はない
 220年   黄初   (三國志)     10月庚午             (資治通鑑)  10月辛未
 238年   赤烏   (三國志)      8月                 (資治通鑑)   9月
 254年   正元   (三國志)     10月己丑             (資治通鑑)  10月癸丑
 258年   永安   (三國志)     10月己卯             (資治通鑑)  10月戊午はない
 280年   太康   (三國志)      3月乙酉はない       (他の資料)  4月乙酉
 280年   呉滅ぶ (全資料)      3月壬申はない
 304年   永安   (晋書)        1月丙午             (資治通鑑)  1月甲子
 307年   永嘉   (晋書)        1月朔               (資治通鑑)  1月癸丑( 2日)
 349年   太寧   (資治通鑑)    1月辛未朔、計算では戊寅朔
 350年   永興   (全資料)      閏1月はない、閏2月か
 363年   興寧   (全資料)      2月己亥はない
 407年   建始   (資治通鑑)    1月辛丑朔、計算では 2月が辛丑朔
 420年   永初   (晋書)        6月壬戌             (資治通鑑)  6月丁卯
 559年   武成   (資治通鑑)    8月己亥はない
 681年   開耀   (資治通鑑)   10月丙寅朔であり10月乙丑改元は誤
 684年   文明   (資治通鑑)    2月壬子はない       (旧唐書)    2月己未
 697年   神功   (資治通鑑)    9月壬辰はない
 765年   永泰   (資治通鑑)    1月癸卯朔でない、卯は巳の誤りか
 938年   広政   (資治通鑑)   明徳改元は誤記と思われる
 960年   建隆   (新五代史)    1月甲辰             (続資治通鑑)  1月乙巳
1232年   天興   (続資治通鑑)  4月13日甲子だが計算すると14日

年初(歳首)

中国では王朝によって年初(歳首)が異なっていました。各時期の月の表現 方法を一覧表にすると、下記の様になります(-は運用期間が1年に満たない ため存在しなかった月です)。

歳首期間
建亥月秦、漢初~太初1.巳 101112
建子月唐武太后載初0.子~久視3.戌10
唐粛宗1.子~同2.巳
方臘永楽0.子~同1.酉 10
建丑月新王莽始建国0.丑~地皇4.戌111210
魏景初1.辰~同3.子 111210
建寅月その他の時期 101112

本プログラムでは一貫して建寅月を歳首としています。これは歳首の切り替え 時に同じ年月が二度生じて指定が混乱することを避ける為です。従って2度 ある太初元年10,11,12月は、年初の方を太初0年、年末の方を太初元年として 扱います。1月以外を歳首にしている時期には何れも同様の読み替えが必要で す。読み替えが必要な場合は、皇帝表記欄に歳首の月の十二支を()でくくって 示しています。

皇帝の表記

皇帝の表記は、

    1) 簡明な諡号(の略称)がある場合は諡号を用いる(漢の孝「武帝」等)。
    2) 諡号が冗長の場合は廟号を用いる(清の高宗等)。
    3) 王朝の最後の皇帝等の理由で1)2)がない場合は通称を用いる(蜀の後主等)。
    4) 一般に正統としない分裂王朝の皇帝は姓名を用いる(前趙の劉曜等)。

という方針にしました。

本プログラムは年号から暦日への変換を主に考えて代始改元がある場合は、改元時 に対応する皇帝名も改めるようにしたため、 必ずしも在位期間とは一致しません。 また王朝の交代にも同様の不正確さが あります(例えば、唐→後梁の王朝交代は、 3/27唐帝退位、4/18朱全忠即位、 4/22開平改元ですが、本プログラムは4/22の 改元日付しか記憶していません)。

字の置き換え

JIS第一水準及び第二水準にない字があるため、当て字を使っています。 when(hv).rsc 中の下記の部分を書き換えればカスタマイズできます。

 conv(ert): ""  # "広竜宝国応観亀斉霊摂寿万廃顕会聡総証礼"  略字体
                #  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
            ""  # "廣龍寶國應觀龜齊靈攝壽萬廢顯會聰總證禮"  旧字体
            ""  # "門鹿青日日音王ノ王土豈王王金人牛奢"  成分(1)
            ""  # "虫加見韋高欠宗ム番爽頁景分長辱建単"  成分(2)
                #  ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
            ""  # "虫鹿覯偉昂韵淙ム潘爽豈瑁分長辱建単"  (要変更)
 
    閩 - (閩) 門虫 五代十国の国名
 (*)麚 - (麚) 鹿加 北魏の年号
    靚 - (靚) 青見 前涼の張玄靚
    暐 - (暐) 日韋 前燕の慕容暐
    暠 - (暠) 日高 西涼の李暠
    歆 - (歆) 音欠 西涼の李歆
    琮 - (琮) 王宗 後梁の蕭琮
    么 - (么) ノム 南宋の楊么
    璠 - (璠) 王番 清の呉世璠
    塽 - (塽) 土爽 台湾の鄭克塽
    顗 - (顗) 豈頁 西燕の慕容顗
    璟 - (璟) 王景 南唐の李璟
    玢 - (玢) 王分 南漢の劉玢
    鋹 - (鋹) 金長 南漢の劉鋹
    傉 - (傉) 人辱 南涼の禿髪傉檀
    犍 - (犍) 牛建 北涼の牧犍、代の什翼犍
    奲 - (奲) 奢単 西夏の年号
 
 (*) 正しくは紹介した文字の音符書き換え字「鹿の下に加」()