iran.rsc はイランの暦法を扱います[12],[21]-[26]。
イラン暦 バハイ暦
イランでは伝統的に春分を年初としますが、暦法の詳細は時代とともに 変化してきたようです。
No. | 公用期間 | 暦法(紀元)名 | 元期(*は即位) | 特徴 |
(1) | 632.06.16~ | Yazdegered | Yazdegered III* | 余日を5日、120年に1度閏月? |
(2) | 1079.03.15~ | Jalali | Hijra | 余日を5~6日 |
(3) | 19世紀中期~ | Turkic-Mongolian | 700 after Hijra | モンゴル風の太陰太陽暦 |
(4) | 1911.??.??~ | Borji** | Hijra | インド風の太陽暦 |
(5) | 1925.??.??~ | Solar Hijra | Hijra | 年の前半が31日 |
(6) | 1976.03.14~ | Shahinshah | Cyrus* | 年の前半が31日 |
(7) | 1978.08.27~ | Solar Hijra | Hijra | 年の前半が31日 |
** Turkic-Mongolian 暦、Borji 暦は上記公用以前も民間で長年使われていたと いう(現状何れも表を用いなければ再現困難)。これらの暦による史料も多いらしく、 when.exe のサポートする Yazdegered, Jalali, Solar Hijra 暦だけでは カバーできる年代は限られる。
となります。
Yazdegered 暦は文献[12]では120年1か月毎に30日からなる閏月を置くとして いますが、同じ文献に AD1079.3.15は Yazdegered 暦 448年 Farvardin月 19日 と記されており、閏月が入らず、この置閏法は実行されなかったのではないかと 思われます。この地域には Yazdegered 暦のような閏年のない暦法がいくつか記 録されています。アルメニア[12],[13]やエジプト[13]の暦法です。 s.rsc にはこれらの暦法を収録しておきました。
Jalali 暦は単純な33年8閏法です[12]。
Borji 暦は太陽の視黄経による「節月」(後述)と思われ(文献[12]の情報は Borji 暦に関しては不十分で断定的なことは言えない)、ネパール・南インドや バリの太陽暦(後述)と同様 29~32日の月があります。
アフガニスタンにおいても AD1911年から Borji 暦が実施されましたが、その 月の日数は次第に一定に揃えられるようになり、AD1968年3月(Solar Hijra 1347 年)からはイランと完全に同じ暦となっています[12]。
また、Solar Hijra 暦の年初は Borji 暦に連動しているそうですが、ここ150 年間を見る限り33年8閏法になっています(これも[12])。62年15閏法の資料も 見かけましたが(“Wuestenfeld-Mahler'sche Vergleichungs-Tabellen”という も書誌情報欠乏)、他のすべての資料と矛盾するため採用しないでおきます。
イラン暦の元日の定義について、確実な文献ソースを みふるだーとさんからご教示いただきました。 "Thenceforth the first day of the offical new year was always the day on which the sun entered Aries before noon"(文献[243] - http://www.iranica.com/) つまりイラン暦の元日(Ferverdin月1日)は、太陽が午前中に白羊宮にある最初の日です。
イランには春分の瞬間を時報で報じ新年の到来を祝う習慣があるそうです[24]。 上記の定義により、春分の瞬間は必ずAsfend月の30日の正午からFerverdin月1日の正午まで の間に入ります。
本サイトのイラン暦(「今日の暦」の上部にある「その他の暦」で表示されます)は、イラン の正午をUTの午前8時半(時差3.5時間)として、上記の定義に整合した計算になっています。
Yazdegered 暦以前については文献[25],[26]で詳細な検討がなされています。 当初のイランの暦(Old Avestan,Old Persian)についてはほとんどわかっていま せん。文献[25]では太陽暦なのか太陰太陽暦なのかの判断も保留しているくらい です。しかし、ベヒスタン碑文に見られるバビロニアの月名との対応からすると 太陰太陽暦と推定されます[26]。年初は夏至(Maidhyoizaremaya)の頃にあたるの で、きわめてギリシア暦と似た暦であったことになります。ひょっとすると原印 欧語族の暦の直系なのかもしれません(ちなみにインドの古い暦法では年初は冬 至[27])。
この暦(Old Avestan~現在の研究者がそう呼んでいるだけで、当時そのように 呼ばれていたわけではない)はアケメネス朝の初期(前6世紀末頃)にバビロニア の太陰太陽暦および Young Avestan と通称される太陽暦に置き換えられました。 Young Avestan はエジプトの太陽暦をほとんどそのまま導入した暦法で、何度か の修正を経て千年以上使われたとされます。最初の修正は前5世紀後半か前4世紀 初、2度目の修正は後4世紀末か後5世紀の初め、そして最後の修正は AD1006 年 とのことです(最後についてはal-Biruni(AD973~1050以後)[28]自身が関わった のかもしれない)。宗教暦と市民暦からなり、宗教暦は116年(これは恒星年を 近似)とも120年(これは回帰年を近似)とも言われる間隔で30日からなる閏月 を挿入しました。市民暦は紀年が異なるものの仕組み自体は(少なくとも2度目 の修正以後)Yazdegered暦に一致するものと考えられます。
このようにイランは、さながら暦のデパートの観がありますが、文献[25],[26] を暦日再現に十分な根拠のある資料と見なせるか不明で詳細は省きます(なにし ろ「歴史のない」パルティアの時代[29]を含んでいるのですから)。s.rsc に文 献[26]を採用した場合の例を用意しておきましたが、どこまで真相に接近してい るものやら…(s.rsc のペルシャ暦の元年である 503BC は計算の上でのもので、 これがそのまま紀年として使われたことはなかったものと思います)。