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[Calendar/When/Exe/暦説明/本編/日本/補足/明治改暦] (前:戦前の休日の変遷に関するメモ|次:暦改革) (English)

明治改暦

はじめに

査読あり雑誌『科学史研究』310号(2024年)、182-191頁に、

 [研究ノート]「『日本暦日原典』による明治改暦に関する通説の再検討」 (以下<再検討>と略記)

が掲載されたことにともない、これまでの明治改暦通説再検討経緯を本記事にて要約しておく。

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2024-08-09「『日本暦日原典』による明治改暦に関する通説の再検討」(関連記事)
2024-08-21ハイパーリンク
2024-11-21七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス(補足)

これまでの通説

『明治改暦』126-128頁

形式的にはこの改暦は太政官権大外史塚本明毅(一八三三–一八八五)の建議によって行われたことになっている。<中略> 塚本の建議と詔書を対照してみると、その主旨が同一であるばかりでなく、建議の文によって詔書が成立していることが明白である。 時期的にも建議によって改暦の話が決定されたわけではなく、詔書の渙発にあたり、手続きとして建議が求められ、建議の文言がそのまま詔書の案文として採用された。
 「そのまま」ではなかった

『日本暦日原典』544頁

この詔書の文章は,のちに三正綜覧の編さんに携わった権大外史・塚本明毅の建議書を参考にしていることは直ちにわかる。 そしてその建議書はまた,<中略>吉雄南皐(1787~1843)の「遠西観象図説」を援用(<再検討>注6)していることが看取される。 殊に7000年に1日の差という間違いは,吉雄の計算違いがそのまま使われている(<再検討>注7)<中略> この詔書では400年に3回閏年を除くというグレゴリオ暦の特徴が脱落していた。 そのためこのままでは,1900年(明治33年)が閏年になってしまうので,明治31年の勅令第90号が必要となってくる(<再検討>注9)
 第1文以外は、ふたつ目の中略部を含め全て誤り

通説の再検討

前提情報

明治5年11月の改暦経緯

改暦ノ儀ニ付御達」で明治5年11月の改暦経緯を確認したところ次のことが判った。(<再検討>186-187頁,<差分>(2))

つまり、「改暦の詔書」起草者は、

「改暦の詔書」を今日に伝わる文面で確定させた。

塚本明毅市川斎宮
最初(1)七千年四千年(理由付き)
最初(2)四歳每原則子年辰年申年
最終(1)最モ精密ニシテ(追記)七千年八千年(変更)(理由なし)
最終(2)四歳每(ママ)子年辰年申年(削除)

「改暦の詔書」で採用を見送った「子年辰年申年」と採用した「四歳每ニ一日」の違いはなにか?(<補足>4.1節)

ポイントは2点

※キーワード:「深層構造」と「表層構造」(<紹介>補論)

明治改暦はグレゴリオ暦への改暦

明治31(1898)年勅令第90号

閏年ニ關スル件」に「明治三十三年ハ閏年ナリト思惟スル者多カルヘシ」とあることからは提案者自身は「思惟スル者」には含まれないと判る。

もし、立法提案者の文言が「ト思惟スル者多カルヘシ」を欠いたものであったなら、立法前は法理上1900年が閏年と規定されていたと立法提案者自身が認識していたことになる。 つまり、明治改暦は法理上「グレゴリオ暦」でない暦法への改暦で、改暦後それまでずっと「グレゴリオ暦」ではなかったということだ。

これは前項のとおり誤った解釈である(<再検討>188頁)。公式見解「明治三十三年ハ閏年ナリト思惟スル者多カルヘシ」の「ト思惟スル者多カルヘシ」を“脱落”させると伝言ゲームが発生する。

なお、置閏の計算に、皇紀-660 を用いていることから、勅令が特段に西暦を避けていないことが判る。避けるつもりがあれば 皇紀-260 を用いればよいからだ(<2017-02-12>)。

参考文献